昭和19年~25年

近畿日本鉄道の誕生

  • 近畿日本鉄道設立の新聞記事
    (朝日新聞、昭和19年3月4日)
  •  「近畿日本鉄道株式会社」は、昭和19(1944)年6月、関西急行鉄道と南海鉄道との合併により設立された。 これは、両社の経営戦略に基づくものではなく、戦時期の交通統制が進むなかで成立した合併であった。 発足時の営業キロは639.3km、日本の私鉄では最大の規模であった。 しかし、このころから資材調達難と労働力不足が深刻になり、当社でも、路線や駅の営業休止、運転速度の低下、列車本数の削減などを行い、資材・労働力の節約に努めつつ運輸営業を継続した。

 太平洋戦争も終盤になると、東京や大阪などの主要都市は空襲を受け、焼け野原と化した。 当社でも、大阪市阿倍野区にあった(旧)大鉄百貨店ビル内の本社事務所および日本鉄道阿倍野百貨店((現)近鉄百貨店阿倍野店)が昭和20年3月の空襲で被災したほか、鉄軌道事業においても車両、施設が大きな被害を受けた。 当社では従業員の食糧確保を目的に、農場、製塩場などの経営に取り組み、戦後、食糧事情が好転するまで継続した。

 戦争終結後、深刻な食糧難に加えて、インフレの急進も国民を苦しめた。 そこで、「ドッジ・ライン」と呼ばれる強力な経済安定政策が実施された。 しかし、これによってデフレが一挙に進み、日本経済は不況に見舞われた。

 当社では、過大になった規模を適正に戻す目的で(旧)南海鉄道部門の分離を検討し、昭和22年6月に南海電気鉄道への事業譲渡を実施した。 こうして新生「近畿日本鉄道」が誕生した。 その後、京阪神急行電鉄((現)阪急電鉄)から京阪電気鉄道が分離したことで、当社を含む関西大手私鉄5社体制が確立された。 一方、24年6月には、公共企業としての日本国有鉄道も発足した。

 新生近畿日本鉄道の誕生を目前にした昭和22年、公職追放の関係で当社役員が大幅に入れ替わることになり、種田虎雄社長にかわって、運輸大臣を務めた経歴を持つ村上義一が社長に就任した。 しかし、実際に社務を掌ったのは、佐伯勇専務であった。 佐伯専務は、有料特急の新設、球団経営への参入、近代的タクシーの営業開始、ドラッグストアの開設などといった事業を推進した。

 戦後、鉄軌道事業では、戦争で荒廃した車両の整備が喫緊の課題となった。 そこで、当社は昭和20年11月に田中車輛(同月、近畿車輛に商号変更)を傘下に置き、車両の整備体制を強化したが、それでも運転事故が続発した。

  • 大阪線の特急列車(モ2200)
  •  とりわけ、23年3月に河内花園駅構内で発生した列車追突事故は、49人の犠牲者を出す大惨事となった。 これを受けて事故防止対策委員会を設置し、事故につながる要因を探ったうえで、事故の防止に努めた。 このことが戦後における安全対策の基礎となっている。

 戦時中に営業休止となった駅の多くは昭和21年に営業を再開し、徐々に復興の成果を上げつつあった。 こうしたなか、22年10月には上本町・近畿日本名古屋間で座席定員制有料特急列車の運行を開始した。 当時は伊勢中川駅での乗換えが必要であった。 ついで、23年7月には上本町・宇治山田間でも特急運転を開始した。 さらに、列車内の快適性を高める目的で、同月に車内販売を開始し、24年6月には座席指定制を採用した。 なお、25年8月から27年9月にかけては、団体旅客輸送に限定して名古屋鉄道との相互直通運転を実施した。

名古屋線の特急列車(モ6301)
特別車運転開始の広告
  • 大型ディーゼル・トレーラーバス
  •  バス事業では、昭和22年12月、営業用の100人乗り大型ディーゼル・トレーラーバスを他社に先駆けて導入した。 また23年2月には、大阪市の「市営主義」により退けられていた大阪市内への乗入れを実現した。 一方、アメリカ視察を行った佐伯専務が現地のイエロータクシーに触発され、タクシーの新しい営業形態を発案した。 すなわち車両は、標識灯を点けて空車・実車の判別を容易にするとともに、夜間でも目立つように、黄色に塗装したものを使用したのである。 当社は25年6月にタクシーの営業を開始し、8月には近鉄タクシーへ事業譲渡した。

 百貨店事業では、戦争の影響で配給統制が強化され、深刻な物資不足が続いた。 日本鉄道上本町百貨店および日本鉄道阿倍野百貨店では、戦中期の空襲による建物の焼失や軍需会社への徴用などを経ながらも、営業を継続していた。 両店は近鉄百貨店阿倍野店、近鉄百貨店上本町店への店名変更を経て、昭和25年から26年にかけてそれぞれドラッグストアを開設した。

 南海鉄道との合併によって当社はプロ野球の球団経営に参画することになり、昭和19年に「近畿日本」の球団名でリーグ戦に参加した。 太平洋戦争の影響で20年はリーグ戦が中止されたが、21年には「近畿グレートリング」の名称でリーグ戦を戦い、優勝を収めた。 この球団は22年6月に南海電気鉄道へ移管されたが、当社は「近鉄パールズ」を発足させて、2リーグ制となった25年のシーズンからプロ野球へ本格的に参入した。 また、戦後改革の一環として労働組合の結成が潮流となり、当社でも21年4月に単一組合の「近畿日本鉄道労働組合」が発足した。

 当社では、昭和19年度から25年度にかけて、急激なインフレの進行で、運賃改定が相次いで実施されたことが大きく影響し、営業収益が41.5倍に拡大した。 業績をみると、21年度下期から23年度下期までの5期にわたって無配を余儀なくされた。 その背景には、政府の物価統制により運賃値上げが抑制された結果、収益の増加が費用増に追いつかなかったことがあった。

 このように、昭和20年代前半における当社の経営は、インフレ急進のなかで一時的に停滞するもののすぐに持ち直した。 こうしたなか、有料特急列車の設定など高度経済成長期に大きく開花する事業の息吹きもみられ、その後の躍進を遂げるための助走期といえるものであった。

出典:近畿日本鉄道100年のあゆみ