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大阪電気軌道の創業

明治43年~大正5年

 当社は、阪奈間を結ぶ目的で明治43(1910)年9月16日に設立された「奈良軌道株式会社」を源流とする。同社は設立後まもなく大阪電気軌道に商号を改め、さらに参宮急行電鉄の合併に伴って関西急行鉄道へ商号変更する。その後、昭和19(1944)年6月設立の近畿日本鉄道へ事業が引き継がれ、現在に至っている。つまり、明治43年9月16日に当社の歴史がスタートしたのである。

軌道敷設特許申請書・特許状(一部)
軌道敷設特許申請書・特許状(一部)

 阪奈間を結ぶ鉄道は、明治31年までに二つの経路((現)JR関西本線の経路および同片町線の経路)で開業していた。しかし、いずれも生駒山を迂回するものであったため、これを横断する短距離路線が要請され、39年5月から7月にかけてこの要請に沿った計画が3件出願された。計画を出願した三派の発起人は、大阪府および奈良県からの勧告に基づいて合併契約を締結し、奈良電気鉄道発起人総代名義で、大阪市東区上本町六丁目から奈良市三条町に至る電気軌道の敷設を出願した。軌道条例に基づくこの出願は、40年4月に特許を得た。

 奈良電気鉄道は、大阪府からの通告に基づき、明治40年6月に奈良軌道と名称変更した。その後、会社設立の準備は不況の影響で中断したが、43年に入って景気が好転したことを受けて会社設立準備を再開し、同年9月16日には奈良軌道の創立総会を開催した。資本金は300万円で、社長に廣岡惠三が就任し、専務に七里清介、取締役には岩下清周、玉田金三郎、守山又三、速水太郎、金森又一郎がそれぞれ就いた。そして10月15日には、創立総会の決議に基づき、「大阪電気軌道株式会社」(以下、「大軌」という。)に商号変更した。

工事中の生駒隧道東抗口
工事中の生駒隧道東抗口

 生駒山越えの経路選定にあたっては、土木に関する測量設計などを請け負う鉄道工務所に調査を依頼し、同工務所から三つの経路が提案された。結局、このうち最も短絡性に優れた長距離トンネル(後の生駒隧道)を掘削する経路に決定した。採用の理由は、競合線敷設の余地を残さないためであった。

上本町駅(開業当日)
上本町駅(開業当日)

 生駒隧道は延長3,388mで、複線標準軌のトンネルとしては当時日本最長であり、掘削工事は困難をきわめた。こうしたなかで、大正2(1913)年1月26日には大規模な岩盤崩落により、坑内で約150人が生埋めになる事故が発生し、19人が犠牲となった。その後も苦難の連続であったが、最終的に工事期間2年10カ月、建設費269万円を要して、3年4月に竣工した。なお、上本町・奈良間全体の建設費は、787万円であった。

沿線案内図(開業当日)
沿線案内図(開業当日)

 建設費が予想額を超え、その工面に窮した大軌は、株式払込金全額収受のほか、300万円の社債を発行して資金の確保に努めた。しかし、それでも建設費のすべてをまかなうことができず、優先株式発行や財団抵当借入れを企図したものの、いずれも失敗に終わった。路線開業前後に資金調達もままならない状況に置かれた大軌は、大正4年2月以降、債務整理案を検討し、7月には具体的な整理内容について債権者との合意にこぎ着けた。この間、廣岡社長は元年12月に辞任し、かわって岩下清周が社長に就任したが、岩下社長も路線開業後の3年11月に辞任した。その後社長不在のまま、金森取締役支配人を柱とした少数の経営陣で難局に対処し、整理案が確定して間もない4年8月、大槻龍治が社長に就任した。

 債務の整理は、大槻社長のもとで実行された。優先株式5万株(250万円)の全額払込みを完了させ、物上担保付社債300万円を発行するとともに、100万円の減資を断行した。こうして、大軌は経営難を乗り切ることができたのである。

 大正3年4月30日には上本町・奈良間を開業し、同区間を所要時間55分で結んだ。開業当初の奈良駅は、奈良市街地への乗入れ協議が難航した影響で工事が遅滞したため、奈良市高天町に仮駅として設置されていたが、7月8日、仮駅から奈良市東向中町までの区間が開業し、仮駅が廃止された。

 付帯事業である電気供給事業は、明治45年7月に大阪府21村および奈良県7村での電気事業経営許可を得た。大正2年8月4日には、大阪府内12村における電灯供給を開始した。これが、大軌の歴史上、最初に開始した事業であった。

 一方、南河内地方では、明治31年3月24日に「河陽鉄道株式会社」が柏原・道明寺・古市間を開業した。当社前身会社では最初の開業で、さらに4月には古市・富田林間を開業した。同社は、大阪鉄道((現)JR関西本線ほか)の柏原駅と南河内地方とを接続する路線敷設の要請を受け、29年3月31日に資本金30万円で設立された会社で、社長には出水彌太郎が就任した。しかし、路線を開業したものの沿線人口が少なく、河陽鉄道はたちまち営業の継続が絶望的な状況に陥ったことから、同社の事業は32年5月に新会社「河南鉄道株式会社」へ譲渡された。同社は、同年1月に資本金30万円で設立された会社で、35年12月には富田林・長野((現)河内長野)間を開業した。さらに、大阪都市部への延伸線を出願したものの、この時代(大正5年まで)には実現しなかった。

 また、伊勢平野においては、津・四日市間を結ぶ目的で、明治44年11月10日に当社前身会社である資本金50万円の「伊勢鉄道株式会社」が設立され、社長には松本恒之助が就任した。同社は、大正4年9月10日の一身田町((現)高田本山)・白子間を最初として、6年1月までに津市(後の部田)・千代崎間を開業した。

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鉄軌道線の推移(1)

出典:近畿日本鉄道100年のあゆみ

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