大和文華館 The Museum Yamatobunkakan
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コレクション

 その1 その2


 
六曲一双の金地屏風に、18人の人物をほぼ等身大に描いている。極彩色に彩られた人物は、着飾った遊女や遊廓で養われていた少女、禿(かむろ)たちである。遊女は、三味線や双六、カルタに興じ、また、化粧をし、髪を結うなど身だしなみに精を出している。両隻の人物の配置はほぼ左右対象になっており、遊廓における遊女の日常の姿を巧みにまとめている。この作品では、入念に描き込まれた衣裳がとりわけ美しい。さながらファッションショウを見るようである。この衣裳の細密な表現から、染織に関する職人が制作に携わったのではないかと考える意見もある。なお、この屏風は、九州平戸の大名家、松浦家に所蔵されていたことから、松浦屏風と呼ばれる。


金箔を敷き詰めた箱に、扇面画8面と団扇画4面を貼交(はりまぜ)ている。このうち、3面の扇面画に光琳の落款と印章があり、他の作品も同様に光琳、あるいは、光琳周辺の絵師の作品と考えられる。扇面画に残る折れ跡から、実用した後、このように仕立てられたことがわかる。おそらく、これらの作品を所蔵していた数寄者の手によるのだろう。古絵巻の学習を示す「西行物語図扇面」や「樹下人物図扇面」、謡曲に取材する「白楽天図扇面」、漢画系の描法にもとづく「雲竜図扇面」、富士を実見した体験が反映されていると思われる「富士図扇面」など、この作品だけでも光琳の画業の様々な側面がうかがえる。まさに小さな光琳美術館である。



中村内蔵助(なかむらくらのすけ)は京の銀座の役人を務めていた。算学者、中根元圭(なかねげんけい)の賛によって、この作品は36歳を迎えた内蔵助が、予め没後の号を定めた際に、尾形光琳に描かせたことがわかる。光琳と内蔵助は親密な関係にあった。内蔵助の娘を養育し、後に、その娘が光琳の息子と結婚することになる。最大の理解者である中村内蔵助のために、光琳が心を込めて描いた肖像画である。この作品には光琳特有の張りのある線描が駆使されている。全体の姿はピラミッド形にがっちりと構成され、強調された両膝がしっかりと支えている。単純化されながら、量感を失っていない。日本絵画史上を見渡しても類がないほどの強い造形性を備えた人体表現である。



手回り品を入れる蓋のない浅い箱を乱箱(みだればこ)と呼ぶ。角を丸め、縁に堅木の枠をはめた、この小さな乱箱には、全面に装飾が施されている。筆をとったのは、尾形乾山である。見込みには、立ち上がる波と大きな蛇籠(じゃかご)を濃墨で描いて金泥の千鳥を飛ばし、側面と裏面は色とりどりの薄で埋め尽くしている。乾山の陶器作品を思わせる意匠の構成である。裏面には、「華洛紫翠深省八十一歳画」と落款が記され、没年にあたる寛保(かんぽ)3年(1743)に描かれたことがわかる。乾山は晩年に江戸に下り、江戸の地で没した。この乱箱の意匠は、江戸の墨田川と武蔵野を描いたと考えられている。童画のような無垢な味わいは、乾山が晩年にいたった境地を示している。



宮川長春は江戸時代中期に活躍した浮世絵師である。風俗版画の版下絵には筆を染めず、もっぱら肉筆の美人風俗画を描いた。この作品では、呼び止められたのか、後方を振り返る姿を描いている。美しい線描は円熟した画技を示し「日本絵師宮川長春」と記す落款に、大和絵の伝統を受け継ぐ自負心がうかがわれる。図上の賛は沢庵(1573〜1645)の偈と和歌を、川上不白(1715〜1807)が寛政(かんせい)9年(1797)に加えたものである。「仏は法をうり 祖師は仏をうる 汝は五尺の体を売りて一切衆生の煩悩を易す 柳緑花紅の色々か」、「水の面によなよな月はかよへとも 心もとめす影ものこさす」という賛は、この絵の高い品格を見事に言い当てている。