昭和6年~18年

戦時統制時代への対応

 昭和初頭の日本では、金融恐慌ののちに昭和恐慌が発生した。 そこからの脱出を図るため、各企業で合理化が進められた。 重要産業統制法は、カルテルの結成を助成するもので、企業の統合を活発化させた。 その結果、交通事業でも寡占化が進行した。 その後、昭和12(1937)年に日中戦争が勃発すると、戦時統制三法や国家総動員法が相次いで成立した。 鉄軌道業界でも、統制の時代へと向かっていった。

 大阪電気軌道(以下、「大軌」という。)および参宮急行電鉄(以下、「参急」という。)は、昭和6年3月に上本町・宇治山田間の直通運転を開始し、さらに名古屋への進出をめざした。 参急は、参急中川駅から北へ路線を延伸し、7年4月に津駅までの開業を果たした。 その先には伊勢電気鉄道の存在があった。 しかし、同社は経営の悪化から整理問題へと発展したため、参急が同社の経営に関与することになった。 同社の整理案に基づき、桑名・名古屋間の建設は関西急行電鉄が、桑名・揖斐間の経営は養老電鉄がそれぞれ担うこととなった。

 昭和11年9月には、参急が伊勢電気鉄道を合併し、営業線が桑名駅まで達した。 しかし、名古屋への延伸が実現する直前の12年2月、創業以来その発展を支えてきた大軌の金森又一郎社長が逝去した。 その後任には、2年から大軌専務を務めてきた種田虎雄が社長に就任し、業容をさらに充実させた。

  • 関西急行電鉄の電車
  •  関西急行電鉄が昭和13年6月に桑名・関急名古屋間を開業したことにより、名阪間を3時間1分で結ぶ画期的な幹線が完成した。 その後、新線建設の役割を終えた関西急行電鉄は15年1月に、順調な営業成績を上げていた養老電鉄は8月に、それぞれ参急に合併された。 そして16年3月には、大軌が参急を合併したうえで、商号を「関西急行鉄道株式会社」(以下、「関急」という。)に変更した。 こうして関急の路線は1府4県にまたがり、営業キロは437.7kmに達した。 また同社は、大阪鉄道グループも統合した。 18年2月に大阪鉄道、19年4月に南和電気鉄道および大鉄百貨店をそれぞれ合併したのである。 さらに、関急の傍系会社であった信貴山急行電鉄も同月に合併した。

  • 関急名古屋駅
  •  名阪間が結ばれたものの、大軌・参急の路線が標準軌、(旧)伊勢電気鉄道の路線が狭軌となっていたため、江戸橋駅での乗換えが必要であった。 そこで、運用面の効率を高める目的で、昭和13年12月、参急中川・江戸橋間を標準軌から狭軌に改め、参急中川・関急名古屋間の直通運転が可能となった。

  • 鶴橋・今里間の高架橋(完成当時)
  •  一方、上本町・布施間では列車本数が限界に達していた。 そこで、輸送力の増強を図る目的で、同区間の高架化を進め、昭和12年3月に竣工させた。 これとともに、駅施設の拡充にも取り組み、14年10月に上本町駅、15年8月に鶴橋駅の改良工事をそれぞれ完了した。 また、15年の紀元2600年奉祝に向けて、橿原神宮周辺の整備を進め、14年7月には総合駅としての橿原神宮駅((現)橿原神宮前)の供用を開始した。

  • 橿原神宮前駅(完成当時)
  •  大軌・参急の合併によって成立した関急では、軌道と地方鉄道とが混在する14路線を保有することとなった。 こうした状況を受け、線名や運賃体系の整理を行うとともに、軌道法に基づく区間をすべて地方鉄道法の適用区間とした。

 自動車事業については、自前でバス路線を開業させていったほか、合併によっても路線を拡大させた。 しかし、その後は政府の統合要請が強化され、地域ごとに統合が進展した。 大阪府内は原則として関急の直営となった。 奈良県では奈良交通が、三重県では三重交通が、岐阜県西濃地区では大垣自動車が、各地域内の自動車事業を担当することとなった。

 また大軌では、昭和11年9月、直営の「大軌百貨店」を開店して百貨店事業に乗り出した。 一方、創業期からの重要な付帯事業であった電気供給事業は、国家管理が強行されることになり、17年4月、関西配電((現)関西電力)に現物出資することにより事業を譲渡した。

  • 大鉄百貨店
    (昭和13年当時、現 近鉄百貨店阿倍野店)
  •  大阪鉄道では、大正中期から昭和初期にかけて行った事業拡大により、巨額の負債が発生し、経営を圧迫することとなった。 同社は負債の整理に奔走したが、財務状況は改善しなかった。 こうしたなかで佐竹三吾社長は、経営再建を推進するとともに、同社の拠点である大阪阿部野橋駅を拡張したほか、傍系会社である大鉄百貨店を設立して百貨店を開店させるなど積極経営へ転じた。 しかし、戦時統制が強化されるなかで、昭和18年2月、大阪鉄道は関急に合併された。

 昭和初期に事業を急成長させた伊勢電気鉄道でも、津新地・大神宮前間開業後、経営危機に陥った。 経営再建に取り組んだものの、その方針をめぐって社内が二分する事態となった。 最終的に参急が軸となって行う再建案が決まり、昭和11年9月に参急に合併された。

 昭和10年代は、合併の時代であった。 前半は参急が名古屋への延伸線の建設に関連して、後半は大軌(関急)が交通統制のなかで統合を進めた。 とりわけ、伊勢電気鉄道および大阪鉄道の合併が経営に及ぼすインパクトが大きかった。 両社とも相応の事業規模を有していたためである。 また、事業の拡大に大きく貢献した関係会社の参急も合併するに至り、この時代に今日における当社の礎が築かれた。 大軌(関急)における昭和5年度から18年度にかけての業容をみると、総資産3.0倍、営業収益6.8倍、鉄軌道輸送人員6.5倍、同旅客収入8.8倍とそれぞれ大幅に増加している。

出典:近畿日本鉄道100年のあゆみ
出典:近畿日本鉄道100年のあゆみ